2017年01月30日
BENEDICERE
1月末から2月上旬、一年で一番寒い時期になりました。それでも子どもたちは少しも負けずに、わずかな時間を惜しんでマラソンや縄跳びに取り組んでいます。デジタル時代にあっても「子どもは風の子」と感じます。
ドミニコ会の800年を祝う1年間は、ローマにあるサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で行われた1月21日のミサで幕を閉じました。この一年、800年祭をきっかけに作られた聖歌 ”LAUDARE BENEDICERE PRAEDICARE” (賛美・祝福・説教) に、子どもたちは良く親しんでくれました。イエスに倣い、弱い人々に寄り添って生きた聖ドミニコの人となりは、以前から歌われていた文語体の聖歌「聖ドミニコよ」にも端的に示されています。
その3番の歌詞に「福者の群れに加えたまえ 我らをも」とあります。これは、神のみ旨に沿う生き方を貫けますように、という祈りでもあり、それを800年もの間、伝え続けた修道者の意思表明でもあります。
その福者の群れに、キリシタン大名として知られる高山右近が、この2月7日に加えられます。フランシスコ・ザビエルと出会った琵琶法師ロレンソ了斎を通して洗礼の恵みに授かった右近。武将としての悩みを抱えながら、領主として貧しい領民に寄り添いました。伴天連追放令を発した秀吉から棄教するよう迫られても信仰を守る生き方を貫き、領地も封禄も返上した右近は、国外追放されてマニラに送られ、病を得てその生涯を終えます。そして没後400年を経て、右近ゆかりの大阪で列福式を迎えることになりました。
「心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである」 (マタイによる福音書 5章3節)
集まった群衆にイエスが語りかけた「山上の垂訓」の冒頭、八つの幸いの1つ目がこの一節です。「心の貧しい人」と訳された原語を直訳すれば「霊において弱い人」あるいは「息の弱い人」。経済的・身体的、また社会的な苦しみに耐えている人々があてはまるでしょう。自分の弱さを知り、ただひたすらに神に寄り頼む人。その人たちこそ天の国で神さまの懐に抱かれる、という呼びかけがここにあります。「幸いである」とは「祝福された状態」をさしています。
聖ドミニコは、神に寄り頼む祈りの日々の中で、財産を投げ打って人々の貧しさに寄り添い、尽くしました。一国一城の主であった右近は、追放という迫害にあっても運命に逆らわず、神に寄り頼んで地位も名誉も捨てて「生きながらの殉教」を受け入れました。
自分の力だけに頼らず、静かな祈りの中で他者への愛に心を向けていくとき、歓声も拍手も褒美もない、けれども広く深く温かい祝福を、神さまはいつもご用意くださっているのです。