貴族ペニャフォール家の出で、1175年頃、スペイン、バルセロナに生まれた。祖国の大学の後イタリアのボローニャ大学で勉強すると、司祭に叙階され、有名な教会法の教師となり、母校で教鞭をとった。のち、スペインにもどり、1222年、47歳でドミニコ会に入会した。 教会法の専門家であった彼は、教皇グレゴリオ九世からローマに呼ばれたが、教会法典最初の編纂のひとつは、その時の彼の労によるものである。この「教令集」は1917年まで教会法典の基本として用いられた。 また、ヘブライ(ユダヤ)人とマホメット教(回教)徒の回心のためにも大いに働いて、このために、東方諸国語の研究所をあちこちに開いた。聖トマス・アクィナスを招いて有名な護教大全(スンマ・コントラ・ジェンティーレス)を著すチャンスを与えたのもまた、彼であった。 1238年、会の総長に選ばれたが、2年後に不健康が理由で辞任し、バルセロナに退き、その後35年間、説教、聴罪、回教徒とユダヤ人たちのために働いた。1275年1月6日帰天。1601年教皇クレメンス八世によって列聖された。
パリ大学に移った彼は、ヨーロッパ最高の学問的水準をもって進められていた聖書研究とアリストテレス研究のまっただなかに身をおいた。ちょうど20歳になったトマスの心に、日々新鮮な驚きを呼びおこしたことであろう。この時期のトマスは、がっしりした体つきをしており、動作は緩慢で、落ち着いていて物静かで、幼少時代からの習慣そのままに、口数少なく、思索好きな学生で、先生の講義を一所懸命に書き留めた。その筆記録のいくつかは、アリストテレスの『倫理学』に関するものであり、自筆原稿の形で現存している。彼のことを「無口な牛」と呼びからかっていたトマスの学友たちは、トマスの筆記録を賞賛しては回覧したのだった。スコラ哲学の討論の作法のために仕方がない時だけ、トマスは自分の弁証に才が素晴らしく優秀であるということを示したが、アルベルトゥスは『この無口な牛は全世界をその鳴き声で満たすだろう』と予言した。この予言通りトマスの著作は18冊に及んでいる。特に『神学大全』と『異教徒反駁大全』は最も重要な著作でありこの二つを合わせると、キリスト教思想の百科全書的な要約となるものである。前者は啓示に基づいて書かれており、後者はキリスト教信仰を人間理性で確証しようとしたものである。トマスの著作は、種々の反発や批判を受けながらもローマ・カトリックの思想界において卓越したものとなった。それは現代まで続いてきている。
ところで、著作に明け暮れていたトマスは、1273年12月6日の聖ニコラウスの祝日のミサの間に不思議な変化を被って、それ以来永久に筆をおいた。著作を続行するように僚友のレギナルドゥスがしきりにすすめたが、トマスはただ「私にはできない。私が見、私に啓示された事柄にくらべると私が書いたことはすべてわらくずのように見えるのだ」と答えたという。
1274年5月からリヨンで開かれる公会議に出席するよう、教皇グレゴリウス10世の要請を受け1273年の冬旅立ったが、その途中健康がすぐれず、遂に1274年の3月7日故郷に近いフォ ッサノーヴァにあるシトー会の修道院で病没した。
14世紀にいたって教皇ヨハネス22世はトマスを聖人の列に加え、また、16世紀以後、教会博士、天使的博士の称号を贈った。また、彼はカトリック学校の保護聖人でもある。