聖人列伝 -ドミニコ会の聖人・福者のご紹介-

福者フラ・ジョバンニ・アンジェリコ

 イタリア国、フィレンツェのサン・マルコ修道院の壁画を始め、天的な雰囲気を漂わす多くの絵画を残したドミニコ会司祭、フラ・アンジェリコこと、グイド・ディ・ピエトロは1400年頃、フィレンツェに近いトスカナ地方のビッキオに生まれました。才能に恵まれた彼は、まずミニチュア(細密画)の師につき、聖書や修道院で歌う聖務日祷の書の中の飾り文字や挿絵の仕事をしていました。
 1220年、20歳位のとき、生まれ故郷に近いフィエソレの聖ドミニコ修道院に入会し、ジョバンニ(ヨハネ)という修道名を受けました。しかし、彼はジョバンニよりもアンジェリコの名で知られています。彼の徳の素晴らしさ、あたかも天国に行って見て来たかと思わせるような美しい絵に、彼の死後、人々は彼をベアト・アンジェリコ(幸いな、天使のような人)と呼ぶようになり、この名の方が本名より有名になりました。
 フィレンツェではドミニコ会士たちの親友、メディチ家のコスモが実権を掌握し、1438年、現在のサン・マルコ修道院の工事を開始し、ここにフィエソレのドミニコ会修道士たちを招きました。1440年から1445年にかけて、フラ・アンジェリコはこの修道院で、いろいろな役割、ある時は会計係の役割も果たしながら創作活動をしました。
 時あたかもイタリアルネッサンスの最中で、シエナとフィレンツェの二つの町を中心にして、それぞれ新しい芸術が繰り広げられていました。「人間」発見の時代でした。フラ・アンジェリコは天と地、霊の世界と現実の世界、人間と自然を結ぶ独特な描き方を造り出しました。彼の絵の中に取り入れられている外の世界、遠近法、庭を彩る小さな草花(ミニチュア時代を思わせます)、福音書の場面に登場するフィレンツェの町の人々、絵を見る我々も絵の中に誘い込もうとする画中の人物、等々、救いの歴史、福音の世界に親しんだ人にしてはじめて可能な描写の数々です。キリスト降誕後の「三王来朝」の場面では、ちょうど1439年にフィレンツェで行われた「東方教会との一致」のための公会議の影響が感じられます。東方からの来訪者たちの珍しい帽子、服装が、幼子イエスを礼拝に来る人々の行列の中にまじっています。好奇心に溢れて東方からの来訪者を観察したであろう画家の目を想像することができます。
 1445年から1450年まで、フラ・アンジェリコはローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ修道院に配属となり、教皇エウジェニオ四世から委嘱されてバチカンの装飾を手がけました。このときの作品には、バチカンに現存する壁画「聖ステファノと聖ラウレンシオ」ほか、キリストと聖母の生涯を背景とした35パネルから成るシリーズがあります。1450年から1452年はフィエソレに戻りましたが、1452年再びローマへ行き、ニコラス五世の委嘱で教皇の私的なチャペルに描きました。
 疲れを知らない画家アンジェリコは、常に製作を始める前に神の助けを呼び求め、仕上げた後は再び手を入れることはなかったそうです。
 「キリストの出来事を描くためには、キリストと共に生きなければならない」と、しばしば口にしていた彼は、無私無欲で、作品の代価を受け取ろうとせず、真の富は、わずかなもので満足することであると信じていました。彼の魂は神の曇りのない感覚を備えた純潔な魂でした。十字架の場面を描くときは目に涙を浮かべ、観想家、神秘家であった彼の魂は、その作品に溢れています。司教にあげられようとしたとき、自分はふさわしくないと固辞し、司祭職の尊厳以外のいかなる威厳も求めなかった彼の生涯は、つつましく、ドラマティックなところはなく、修道院内の沈黙の中での芸術の背後に隠されています。 1455年2月18日、ローマのミネルバ修道院で天の国に旅立ちました。現在もミネルバの教会に埋葬されています。 1983年、教皇ヨハネ・パウロ二世により列福され、彼の死後、人々が直感的に与えていた呼び名、「幸いなる天使」が、教会の中での正式な名ともなりました。

文/理事長 武田教子